猟犬の了見

スポーツ中心に雑記の予定

宗教と紙一重

こんばんは。

(決して宗教がどうこうという話ではありません)

スポーツには指導者がいます。
教えられる選手もいます。
見守る、支える、応援する人たちがいます。

ビジネス、お金の世界とは違い、
その人たちだけが、基本はコミュニケーションを取るだけの世界です。

プロであっても練習姿や中身は
閉鎖的です。


あるオリンピックメダリストが、

マイナースポーツでは

自分を変えるためにはこのオリンピックしかない!
だから合宿中からずっとピリピリしている

と言っていました。
メディアに映る笑顔で行ってきます、なんて嘘です。と。


当たり前の話ですが、今までメジャーなスポーツを基準に考えてきた自分にとっては

さらに生きづらい世界での話…
考えただけでも蜘蛛の糸、のような足を引きずり下ろす世界を想像してしまいます。

どうしてタイトルがこうなったのかというと


生きることと宗教には関係が根強いのだなあと
つくづく感じるからです。

いたるところでマルチは存在し、
まさに人から人へつながっていく

1.「図」

を書いている様をみたり

2.実際に勧誘されてみて、どんな人間が
どんな手立てでやっているのか触ってみたりしました。

1は現在進行形ですが、2.はかなり過去の話です。


何が日常に使えるかといえば

「信じる」ということです。


それも、疑わずに。


そんなの当たり前、ではないのです。

騙して信じさせたところで結局は無意味になるので

必ず続いていくような関係を築きたいのです。



ここからはスポーツで話をします。

なぜこの監督に従って行動をするのか

誰一人歯向かわず作戦を遂行するのか


それは、信じているからだといえるでしょう。

チームスポーツかどうかというのも関係してくるでしょうね。
勝てば勝つほど、指導者のおかげだ!という方向に気が向くのは至極真っ当な事で。


もちろん、ただの傀儡もいるでしょう。


実績

信用

期待

経歴

…といったようなことから、

信者は集まるのです。

それも、強力な。


最初からその教えを信じているから

それ以外の情報と比較はせず

ただひたすらに、己の信仰を磨き上げていくのみなのです。

それが、いいサーブカット=レセプションこそが生命線

でバレーボールの戦術が止まっている要因の一つともいえるでしょう。


脱線しますが、いくらサッカー王国が集まっていたり、野球エリートがくるとかいう話があるとはいえ、
自分は
部員200人で戦います!!と
聞くだけでそういう考え方を思いついてしまいます。


訪問ありがとうございます。
素敵な日々でありますよう.